護りたいもの

 日が昇りきっていない暗い空の下、神谷道場の中庭に姿を現した聖は、背伸びをしながら独り言を呟く。
「んー…! いい天気……かは、まだわからないか」
 もう暖かくなっている時期にもかかわらず、夜明け前の時間は肌寒い。庭にある木々の葉には朝露が降りている。しかし今の聖には、そのひんやりとした空気がとても心地良かった。
「誰も起きてないよなぁ……でもまた寝る気にもなんないし」
 ただ、どうにも静寂は耐えがたくて、無意味な独り言を続ける。静か過ぎると、先程見た夢のせいで大きくなっている心臓の音がやけに響くから。
「……」
 しかしそれもそう長くは続かない。今度は深呼吸をひとつ。ドクン、ドクンと脈打つ心臓を、目閉じて数えた。

 『聖』

 心臓の音の合間に、頭の中で声が響く。夢の中で聞いた声。知らない声だ。でもたぶん、自分はその声の主を知っている。そして何故か、その人がもういないことも知っている。特に理由なんてないけれど、なんとなく感じる。守りたかった、守れなった大切なもの……それが何かさえ、思い出せないけれど。
「聖? どうしたのでござるか?」
 ぼうっとしていた聖の思考を現実に引き戻したのは、見慣れた赤い髪と、聞き慣れた特徴的な口調。
「……剣心さん?」
「こんな時間にどうしたのだ? 朝餉を作るにも早かろう」
 剣心が神谷道場を空けている間、家事は聖の仕事だった。剣心が戻ってきた今では二人で協力してやっているが、朝はだいたい剣心の方が早く起きている。
「ちょっと、眠れなくって。剣心さんは?」
 笑いながら答えると、剣心は「おろ」と呟いて、
「拙者もでござるよ」
 と、やはり笑いながら答えてくれた。その顔を見て、聖はようやく落ち着けそうな気がした。
 自然と縁側に腰を下ろす剣心に、聖も黙って隣に続く。
「……汗をかいているな。怖い夢でも見たのでござるか?」
 怖い、とはまた違うかもしれない。遣る瀬無くて、虚しくて……そして、とても寂しい夢。いや、それは確かに恐怖だった。誰かに…そう、あの声の主に、置いて行かれる恐怖。
 コクンと頷く聖を見て、剣心は「そうか」とだけ返した。
「……」
 再び訪れる静寂は、今しがたあったものとは打って変わって穏やかだ。こうして隣にいてくれるだけで、心が静まっていくのがわかる。
 しばらくして、その沈黙を破ったのは聖だった。
「剣心さん、手合わせしてもらえませんか?」
「……は?」
 あまりにも唐突な申し出に、剣心にしては珍しく間抜けな声を出した。
「体動かしたいんです。じっとしてられなくて……」
 俯いたまま聖は言った。それを聞いた剣心は一瞬迷ったような顔をしたが、すぐに優しく笑って答える。
「いいでござるよ」
 剣心の返事に聖はようやく顔を上げ、嬉しそうに礼を言った。

   ◆◆◆  ◆◆◆

「剣心ー! もう、どこ行ったのよ。聖君もいないし……」
 日もすっかり昇った頃、神谷道場の屋敷には明るい薫の声が響く。その声に眠たそうに目を擦りながら起きてきたのは弥彦だった。
「朝からどうしたんだよ薫」
「剣心と聖君がいないのよ。いつもなら二人して朝ごはん作ってくれてるのに」
「そういやさっき道場の方から音がしたけど、もしかしたら二人ともいるんじゃねぇか?」
 聖はともかく、剣心が自ら道場に行くとは考えていなかった。薫はまさかと思いながらも、急いでそちらに向かう。弥彦も薫の後を追った。

「うわっ!」
「「!?」」
 まさかとは思っていたが、道場に着いた途端、聖が目の前に吹っ飛ばされてくるのはさすがに予想外だった。
「け、剣心?」
「聖? 何してんだ!?」
「あ、薫さん、弥彦……」
 頭を抱えながら起き上がった聖は、驚いている様子の二人に申し訳なさそうに苦笑する。剣心もそれに気が付いて、にこやかに笑った。
「おお、薫殿。すまぬが勝手に道場を使わせてもらったでござるよ」
「え? あ、別にいいけど……」
「そんなことより何してんだよ?」
 弥彦は怒っているように尋ねた。いや、どちらかと言うと拗ねているような感じだ。剣心が何をしていたのか、察しがついたからだろう。
「ああ、ちょっと聖に頼まれたのだ。体を動かしたいからと」
「剣心、俺の相手は全然してくれないくせに……」
 やはり思った通りで、弥彦はますます膨れる。剣心は苦笑したが、焦ることなく説明した。
「別に飛天御剣流を教えているわけではござらんよ。それに、弥彦には立派な師匠がいるだろう?」
 もう何度か聞いた覚えのあるセリフに、弥彦はまだ何か言いたそうにしながらも黙ってしまう。これは本格的に拗ねそうだ、と思った剣心は、何か思いついたようにポンっと手を叩いた。
「聖、次で拙者から一本取れなければ、今日の家事は全てお主に任せよう」
「え゛」
 剣心ってこういうこと言う人なんだ、と聖は思った。
「じゃあその次には俺の相手してくれよな!」
「構わぬが……負けたら明日の家事は弥彦でござるよ」
「……やっぱいい」
 まあ、剣心の目論見はここだったのだが。

   ◆◆◆  ◆◆◆

「ハァ、ハァ……ッ」
 聖は汗だくになって仰向けに倒れていた。それに反して剣心は息一つ切らしてはおらず、聖の傍まで来て顔をのぞき込む。
「大丈夫か?」
「は、はい……剣心さん、やっぱ強いや…」
 ふらふらと上半身を起こすまでは出来たが、それ以上は体が動きそうにない。しばらく立ち上がるのは無理そうだ。
「お主も強いでござるよ。これからもきっと強くなる」
 そう言っている剣心の目は、とてもまっすぐだ。剣術だけじゃない。この人は本当に強いと、ただ純粋に思う。
「……大切なものを護るための強さを、聖は持っているでござるよ」
 ニッと笑う剣心。特に何を言ったというわけでもないのに、まるで全部わかってくれているような、そんな笑顔。とても安心する感じだ。不思議な人だとも思う。

「さ、そろそろ左之も来る頃でござろう」
「……はい、そうですね」

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