桜のなかりせば

「世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」
 暖かい春の日差しに心地よさを感じながら輝がうとうとし始めていた時、ふと隣から聞こえてきたのは、どこかぼんやりとした眠たげな声だった。
「……何? それ」
 視線を送りつつ声の主、聖に問う。しかし聖は、声の通りぼんやりとした表情のまま上を見ていた。
「んー? 誰だったかな……有名な人の歌」
「ふーん……」
 そう返して自分も上を見る。いや、正確には上にある桜を。神爪の里にも、桜の咲き誇る季節となっていた。
「もしも世の中に全く桜がなかったら、春を過ごす心はのどかだっただろうなぁ……っていう意味なんだって」
「……ああ、なるほど」
 周りをゆっくり見渡して、聖が言った歌の意味に納得する。この外の世界とは隔離された里でも、花見をする習慣はあった。現に今も、幾人かが桜の下で宴会を行なっている。
「ここですら花見をする人がいるんだもんね。きっと外の町とかじゃあ、もっといっぱいいるんだろうなぁ」
「そうだね。花見のために色々準備したりとか、大変なんじゃないかな」
 例えば今の季節、雨が降ったとしたら、人々は桜が散ってしまうと嘆くだろう。例えば少し、桜がいつもより早く咲いたとしたら、人々は花見の準備に慌てるだろう。例えば少し、桜がいつもより遅く咲くとしたら、人々はまだかまだかと桜が咲くのを待つだろう。そうして人々は、桜に翻弄されているわけだ。
「でもね、この歌を詠んだ人は、別に桜が嫌いなわけじゃないんだ」
 意外な言葉に、桜から聖に視線を戻した。
「そうなの?」
「うん。むしろ桜が大好きで仕方ない人なんだよ」
 桜に翻弄されているとわかっていながら、桜が咲くのを待ち、桜が散るのを惜しむ気持ちを詠んだ歌。
「……聖は、どっちの気持ちで詠んだの?」
「俺? 俺は……――」

   ◆◆◆  ◆◆◆

「――もう一度眠るがいい、神爪の者よ。目覚めたときには、また過去をなくしているだろう……」
視界の端に、赤く燃える火が映る。そして中心には、優しく微笑む真田。
「だが、その方がいいのだ。古き因縁から解き放たれ、未来を生きようとするお前達には……」
 未来を生きるため……そうだ。私はこの先、生きていく道を選んだ。それならきっと、真田の言う通り昔の記憶はない方が楽、かもしれない。……でも、ちょっと待って。私は本当に、本当に全てを忘れたいと思ってる……?
「さらばだ。神爪の者よ」

   ◆◆◆  ◆◆◆

「黙って出て行くつもりでござるか?」
「……」
 やはり、この人にはお見通しか。もしかしたら私自身、彼に見送られることをわかっていたのかもしれない。
「……剣心」
「薫殿や弥彦が悲しむでござるよ」
 私も悲しいな。みんなと一緒にいる時間は、すごく楽しかったから。これからも、楽しく過ごしたいと思ったから。
 心の中でそう言って、剣心と目を合わす。すると剣心は少し驚いた顔をした。
「そなた、まさか記憶が戻っているのでは?」
 ……本当に、どこまでお見通しなんだろう。この人は。
「真田の術が効かなかったと?」
「うん……忘れたくないって、思ったから」
 忘れたいと思ったくらい、つらい記憶。

『世の中に、たえて桜のなかりせば』
「もし、記憶がなかったら」
『春の心はのどけからまし』
「きっと私の心は、楽なんだろうけど……」
『この歌を詠んだ人は、別に桜が嫌いなわけじゃないんだ』
「だけど」
『むしろ桜が大好きで仕方ない人なんだよ』
「大切な……とても大切な、大好きな記憶だから」
『俺も桜は、大好きかな』

「……そうでござるか」
 剣心の笑顔が嬉しそうに見えたのは、気のせいじゃないと思う。だから私も嬉しくなって、笑顔を返した。
「またいつの日か、ここに戻ってくるのでござるよ。輝殿は、拙者達の仲間でござる」
「……うん。ありがとう、剣心」

 世の中に、たえて桜のなかりせば……

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