誇り
ああ、なんと……なんと近い空だろうか。
硝煙と、砂埃と、血の匂いに覆われた曇天。手を伸ばせば届きそうな気さえして、だらんと地面に置いた利き腕に力を入れる。が、どうにも持ち上げることは敵わなかった。こんなに近いのに、触れようとすることすらできない。急に情けなくなって、視線を空から地面へ移した時、ふと気付いた。
曇っているのは空ではなく、己の眼だということに。
「……あと少し、だったんだが」
渇いた喉から出た声はやはり渇いていて、さらに水気を失わせる。そういえば、最後に水を飲んだのはいつだっただろうか。
「徳川、家康……」
再び水気を奪う声を絞り出す。しかし続きは言えなくて、頭の中で残りを唱えた。
――見事なり。あの軍勢も、あの強運も、あの魂も。あそこで本多忠勝に来られては、さすがにどうにもならなかった。佐助、やはりお前一人に戦国最強を任せるのは荷が重かったか? ……はは、冗談だ。俺はお前を信じているぞ。ただ、もう少し給料をやれば良かったと、後悔はしている。すまなんだ……結局最後まで付き合わせてしまったな。小言は“あちら”で聞いてやろう。
「真田……」
思考を遮ったのは、じゃり、という地面を踏み締める音と、聞き覚えのある男の声。ゆっくりと視線をずらしていけば、右目を連れた独眼竜の姿がそこにあった。
「……テメェはそこでgive upか? 真田」
相変わらず、この男の言うことはよくわからぬ。異国語とは不便なものだ。
そんなことをぼんやりと思いながら、先程持ち上がらなかった腕にもう一度力を入れる。それはそれは鈍い動きであったろうが、何も言わずに見つめている双竜をいいことに、急ぐことなく痺れる手で己の首を指差した。
「……持って行け」
お館様、この幸村、ついに泰平の世我が目で見ること叶いませんでしたが、武田の魂、そして真田の生き様……しかとこの世に刻み付けたつもりにございます。こればかりは、たとえお館様に叱られようと、反省するつもりはございませぬ。奪い続けてきた命に捧ぐ、命を懸けた誇りなれば。
――慶長二十年五月七日、真田源二郎幸村没。